天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家が在城していたと伝わるが定かではない。
戦国時代には大内義隆の家臣内藤隆春が在城していた。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長二カ国に減封となり萩城を居城とした。これによって毛利秀元は六万石を分知されて櫛崎城を居城とし長府藩となった。 毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物である。後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてた。
元和元年(1615年)幕府による一国一城令によって櫛崎城は廃城となり、長府藩は現在の豊浦高校の敷地に居館を構えて藩庁とした。元治元年(1864年)十三代毛利元周のとき勝山御殿を築いて居城を移している。
櫛崎城は現在の関見台公園から北の豊功神社一帯に築かれていた。 城は東の海に突き出すような場所にあり、西の陸地側に堀を設けていた。
主郭部は現在の関見台公園の辺りで天守台らしきものが積み直されて展望台になっている。どこまで旧状を保っているのか不明であるが、上には礎石らしき石もある。この関見台公園の駐車場から北の豊功神社側へ向かう細い路地沿いに古い石垣が続いており、その北端部分(豊功神社の参道)に石碑が建っている。
関見台公園に駐車場がある。
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