築城年代は定かではないが大永7年(1527年)には大内家臣高森内膳之助が在城していた。それ以前にも青山弾正なる人物が在城したと云い伝えられているが、青山氏に関しては不明である。
大永7年(1527年)高森内膳之助と北の尾根続きにある且山城主内藤興盛と争いとなった。高森氏は津原膳勝、津田興輝の加勢を得て一万二千の軍勢で且山城を取り囲んだが、大内氏の加勢を得た内藤氏によって形勢が逆転し、瞬く間に青山城は攻め落とされたと云う。この戦いは「青山くずれ」と呼ばれ、このとき戦死した兵士の墓が付近に多く見られるという。
その後は高橋某、内藤隆春(内藤興盛の子)が在城したという。
城は標高288mの青山(形山)の山頂に築かれている。 現在山頂には無線中継施設が建てられており主郭部が破壊されているが、石垣と堀切、畝状竪堀群が残っている。
遺構は大きく西尾根、北尾根、南東尾根の三箇所に点在している。
西尾根は案内板が設置されているところで、曲輪の西端にあたり西側面の石垣1と南端から東西に伸びる石垣2がある。石垣1の下方に堀切1と畝状竪堀群1の遺構があり、巨石の間を縫うような畝状竪堀群がある。
北尾根にある堀切と畝状竪堀群2の遺構は車道による改変があるが、下方に二ヶ所の堀切、その上に尾根に沿う形で放射線状の畝状竪堀群、その起点は横堀となる。おそらくその上にも堀切があったのではないかと思われるが、現状でははっきりしない。
南東の遺構は車道の上と下に分かれている。車道の上側は曲輪で虎口状地形が上下二段存在する。下方は虎口で下方が右へ折れ、入口は東側が南に張り出し列石がある。 車道の下には石垣が三箇所あり、西の二条の連続竪堀はその起点が石垣となっている。東側の石垣は虎口であるかもしれない。
無線中継施設へ車道が通っているが関係車両以外は通ることはできない。東麓の田倉地区から登山道があり、ここから登る場合には勝山御殿の駐車場が利用できる。また且山城からの縦走路もある。
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