治承3年(1179年)七代厚東武光によって築かれたと云われる。 厚東氏は物部氏の末裔を称し、初代厚東武忠が棚井の地に住んだことに始まるとされ厚東氏館を居館としていた。
十四代厚東武実は長門守護職となり勢力を拡げるが、その後大内氏と争うようになり、十七代厚東義武のとき延文3年・正平13年(1358年)大内弘世によって霜降城は攻め落とされ、厚東義武は城を逃れて九州へ落ちていった。
霜降城は厚東川に面した標高250.2mの霜降岳を中心に築かれている。 霜降岳山頂に本城、南東の峰に前城、北東の峰に後城があり、西の峰には中城があったとされるが、中城は遺構もないようで未確認である。
本城は山頂が中心の曲輪であるが削平状態は良くなく自然地形が多く残る。北尾根側にやや大きな堀切があり土橋が架かる。南西側へ伸びる尾根に大空堀があり、外側を大土塁が弧状に取り巻いている。ここが一番の見所で、その外側にも緩斜面の曲輪があり、先端に低い土塁が付いて外側に若干石積が残っている。
本城の南東の峰にあるのが前城で、ここも山頂の曲輪には巨石が点在し、削平も不十分である。しかし、南から東側にかけて空堀が横堀状に巡らされており、南の登山道は土橋になっている。東側には二本の畝状の土塁があり、空堀を区画するようになっている。
本城の北東の尾根にあるのが後城で、後城は南北の峰にそれぞれ曲輪を配している。 本城・前城の曲輪が削平不十分なのに対して後城はきれいに削平された曲輪群で、周囲に帯曲輪や腰曲輪が段々と造成されている。他とは異なり空堀も堀切も見あたらないが、北峰の南東側に外側に低い土塁が付いた帯曲輪が残る。
登山道は末信・吉見の各方面から付いている。
車の場合、県道219号線から舗装された林道を終点まで行くと駐車場がある。ただし道路の入口に門があり、開門時間はam8:30〜pm5:30までなので注意が必要。(林道入口の地図)
駐車場は霜降岳の南東に位置する標高232mの男山山頂付近で、ここから前城・本城・後城と尾根伝いに道が付いている。
最寄り駅(直線距離)