築城年代は定かではないが江戸時代初期に厚狭毛利氏によって築かれた。
厚狭毛利氏は萩藩毛利家の一門で、祖は毛利元就の五男元秋である。元秋は周防国蓮華山城主椙杜隆康の養子となり、永禄年間(1558年〜1570年)には出雲国月山富田城主となったが、天正13年(1585年)に没した。
そのあと家督を継いだのが毛利元就の八男で同母の弟元康である。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れた毛利氏は防長二カ国に減封となり、毛利元康は厚狭郡にて一万五百石で入封したが、慶長6年正月に没した。以後、元宣が家督を継ぎ代々続いて明治に至る。
厚狭毛利氏館は山陽小野田市郡の「殿町」に築かれていた。現在日本化薬殿町寮のある辺りが館の中心で、東側の道路に面して標柱が建っている。
遺構は南西隅部と思われる石垣があり、周囲の民家の庭先に井戸らしきものが確認できる程度である。近くに厚狭毛利家墓所(洞玄寺)や厚狭毛利家菩提所(妙徳寺)などがある。
萩城下には萩屋敷があり現在長屋が残されている。