慶長9年(1604年)毛利輝元によって築かれた。 安芸国広島城を居城として豊臣政権で五大老を務めた毛利輝元は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦によって西軍の大将を務め、徳川家康に敗れた。輝元は防長二カ国へ減封となり、広島城を退去、城地の選定を行い、山口の高峰、防府の桑山、萩の指月山の三箇所を候補として幕府の許可を願い出て、指月山が選ばれた。
萩藩毛利を本家として、長門長府藩毛利秀元が六万石(のちに清末藩一万石が分藩)、周防下松藩(のち徳山藩)毛利就隆が三万石、周防岩国吉川広家六万石などの支藩があった。
文久3年(1863)萩から山口へ移り、翌年山口城を築いて本城とし、家臣の多くも萩から山口へ移っていった。
萩城は日本海に半島状に突き出した指月山の山麓に築かれている。
萩城の本丸は指月山の南山麓で内堀が巡っている。この一角に天守台があり、かつて五重の天守が聳えていたが、明治7年に払下げられ、天守や櫓などは全て解体破却された。 本丸背後にある指月山山頂には詰丸があり、土塀や石垣、無数の矢穴があいた岩などが残されている。本丸の外側には二の丸、三の丸があり、三の丸の東端にある総堀には北の総門が復元されている。
長らく毛利家の城下町として栄えた萩であったが、幕末に山口へ移っていったが為に、古い街並みが良く残されている。
隅矢倉(復元 櫓)
北の総門(復元 城門)
大手入口に無料駐車場がある。
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