慶長7年(1602年)吉川広家によって築城された。 吉川広家は毛利元就の次男吉川元春の三男で、嫡男吉川元長が天正15年(1587年)に病没し、三男広家が家督を継いだ。ちなみに次男は既に他家に養子に入っており、はじめ仁保元棟、のちに繁沢元氏となり、江戸時代には毛利姓に復姓して阿川毛利の祖となっている。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦に敗れた毛利輝元は防長2ヶ国に減封され、安芸国広島から長門国萩へと移ると、吉川氏もまた出雲国富田城から岩国へと転封となった。岩国藩は当初三万石であったが、その後六万石に高直しされている。
岩国城は山上の城を「要害」、山麓の城を「御館」とか「御土居」と呼んだ。 元和元年(1610年)幕府による一国一城令により、山上の要害は廃城となり、山麓の土居を陣屋として維持することとなった。一国一城令は城持格であれば城を維持できたはずであるが、吉川氏は幕府からは独立した大名として扱われた部分もあるが、毛利家では家臣という扱いであったこともあり、岩国城は破却の対象となった。
以後、岩国藩主は代々岩国陣屋を居城として続き、維新後明治政府より正式に独立した藩として認められた。
岩国城は錦川に大きく半島状に張り出した標高210m程の尾根の北端頂部に築かれており、錦川が南を除く三方を迂回するように流れ天然の濠と成している。
岩国城は山頂部に本丸、南に二ノ丸、北に北の丸、北西側にも大きな曲輪群を配している。
本丸には模擬天守が建っているが、この天守台は麓から錦帯橋と併せて見やすいよう、東側にずらして建てられており、背後に本来の天守台がそのまま残されている。石垣は多少改変もあるようだが、東側に桝形虎口が付いている。
南の二ノ丸は南北に長い曲輪で周囲に石垣が巡り、北東部に虎口を開く。
北の北の丸は本丸との間に山城としては極めて大きい、幅約20m深さ約10mという空堀を配している。この北の丸の石垣は良く残っており、それを見て歩けるように散策路が設けられている。
前述の空堀は竪堀としてそのまま北西斜面に続いているが、そこから南西側の部分に曲輪群がある。この一角には大釣井という巨大な井戸跡が残されている。竪堀に面して土塁が付いており、腰曲輪のような平段が無数に点在する。こちら側の曲輪群も石垣によって固められていたと思われるが、ほぼ全ての石垣が崩れており、人為的な破却のように感じる。下の方に降りていくと、搦め手と思われるコの字状に屈折させて登る虎口があり、石段が残っている。さらに下方へ降りていくと、すり鉢状になって開口する虎口があり、その先は自然地形になっている。
大釣井の方に向かって南下した所には、上側が狭く下側が大きくなった竪堀、北曲輪から東側に回り込んだ所にも一般的な規模の竪堀が確認できる。
山麓の陣屋は吉香神社の境内となっている。南東隅に錦雲閣があり、この位置に隅櫓があった。
山上の部分の破城は石垣部分にも及んでいるものの、山陽道に面した北側が大きく崩されているのに対し、南の城下町側はあまり崩されることなく残っている点は注目できる。
天守(模擬 天守)
山上には岩国城ロープウェイで簡単に登ることができる。錦川に架かる錦帯橋とセットになったチケットもあり、駐車場は錦帯橋入口両側付近、ロープウェイ乗り場など多数の無料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)