築城年代は定かではないが椙杜氏によって築かれたと云われる。 椙杜氏は問注所執事三善康信の四男太田民部大輔康連の後裔で、筑後国行和に所領を持っていたが、太田信濃守正康のときに玖珂郡椙杜に移り、椙杜氏を称した事に始まるという。
椙杜氏は正康、弘康、房康、そして隆康と続く。 弘治元年(1555年)陶晴賢が厳島合戦で敗れると、毛利の軍勢は周防へ侵攻する。蓮華山城椙杜隆康、鞍掛山城主杉隆泰、瀬田城主小方元康も毛利氏に降ったが、杉隆泰は大内義長に内通していたことから、毛利氏に攻められ鞍掛山合戦となった。この戦いで毛利軍は鞍掛山城の搦め手側である蓮華山城から攻め落としたという。
椙杜隆康は嗣子に恵まれなかったことから、毛利元就の五男元秋を養子に迎えた。しかし、元秋は出雲国富田城督として迎えられたために椙杜家から去り、代わりに元就の八男元康を養子に迎えた。しかし、この元康も元秋の死後出雲国富田城督となって去った為、志道元保の二男元縁を養子に迎えて家督を譲った。天正16年(1588年)椙杜元縁は長門国且山城主を命ぜられ蓮華山城は廃城となった。
蓮華山城は標高576.4mの蓮華山山頂に築かれている。山頂にある主郭を中心に北東、北西、南西に伸びた尾根に曲輪を配しており、北東端から南東端までは500m程あり、比較的規模の大きな城である。
主郭は山頂にあり、北側山腹に腰曲輪が三段程付いている。主郭から北西の仏峠側へ伸びる尾根には小段が段々と連なり先端を堀切で断ちきっている。北東側の尾根は途中に一条土橋の架かる堀切があり、北東の峰に出丸がある。
南西に伸びる尾根は西峰展望台のある西端のピークまで城郭遺構が続くが、基本的に低い段差の平段が連なるだけで、途中には堀切もない。途中にある三箇所のピークが曲輪となり、尾根部分は自然地形に近い所もある。この尾根先にも堀切がありそうなのだが、見あたらなかった。
蓮華山への登山道は二鹿、仏峠、川上など多方面から道があるようだが、一番わかりやすいのが南東麓の比叡神社付近からある登山道で、この道が一番整備されているようである。
比叡神社入り口を少し北側に行った所に登山道入口の道標があり、その脇にある空き地が駐車場のようである(登山口)。登山道は室ヶ迫コースと市の迫滝コースがあるので上り下りで別ルートを選択することができる。
最寄り駅(直線距離)