詳細不明。永禄11年(1568年)毛利氏と大友氏が九州北部で争っているなか、大友氏に庇護されていた大内輝弘が大友氏から兵を与えられ、海路山口へ侵攻した。輝弘による山口制圧は高嶺城に居た市川経好の正室市川局の活躍によって退けられ、九州から毛利の大軍が引き上げてくると、輝弘は海路で逃れようとした。しかし、すでに船はなく、この茶臼山城で抵抗を試みるも敗れ自刃したという。
富海茶臼山城は周防灘に面した標高107.8mの茶臼山城に築かれており、旧山陽道は山の北鞍部を越えていた。
茶臼山城の遺構は簡単なもので山頂部に二段の曲輪があり、周囲に低い切岸が巡っている。南側は比較的緩斜面であるが、こちらには切岸も曖昧で、北の峠側のほうが切岸が明瞭であり、そちらからの攻撃を意識しているようである。ただ、山口を急襲した大内輝弘が急造するような城ではなく、街道と海を監視する砦のようなものがあったと推測する。
主郭から少し北へ下った辺りに大内輝弘が自刃したとされる切腹岩があり、鞍部の山陽道脇には大内輝弘の墓とされるものがある。
北の旧山陽道側から堀底道があり登る事ができる。旧山陽道は未舗装林道であるが普通車は難しいだろう。
最寄り駅(直線距離)