築城年代は定かではない。 城主は粟屋氏の庶流で元秀・元宗・元通・元定と続く一族の居城と伝えられる。いずれも初名弥三郎で縫殿允・縫殿助そして備前守の官途を名乗っている。
粟屋氏は源義光を祖とする清和源氏で、安田三郎義貞の曾孫にあたる元義が常陸国粟屋に居住して粟屋氏を称し、大江広元から諱を賜り粟屋若狭守元義と名乗ったことにはじまるという。 建武3年(1336年)毛利時親に従って安芸国吉田に下向し粟屋一族は多数の庶家を輩出している。
粟屋備前守元秀は毛利元就の家督相続に際して上洛し、室町将軍足利義晴の支持を得た。粟屋備前守元通の次男が堅田元慶で、小早川隆景の猶子となり小早川を名乗るように云われたが、これを固辞し堅田を名乗った。
塩屋城は甲田町上小原と向原町戸島にまたがる標高375.5mの山頂に築かれている。 日本城郭大系では「しおや」とルビを振っているが、芸藩通志、広島県中世城館遺跡総合調査報告書ともに「えんや」としており、こちらを採用している。
塩屋城は戸島川に面して南北に伸びた山頂部に築かれており、中心となる曲輪群の切岸は高く、横堀と竪堀の組み合わせが確認できる見ごたえのある山城である。
中心となる主郭部は曲輪I、II、IIIで一段低いIIIを挟んで高い曲輪が存在する。
北は大堀切8を挟んで曲輪IVがあり、北端は二重堀切1である。IVは南北三段ほどに別れているが、西側に土塁を設けており、その下部に横堀を伴う連続竪堀3がある。
南は堀切5を挟んで堀切側に土塁がついた曲輪Vがある。曲輪の造成は甘いが、その下方に幅の狭い堀切6、その先にはやや切岸加工された緩斜面地形が続くが堀切は見当たらない。
曲輪IIの周囲は高い切岸の下に緩斜面地形が広がっているが、造成は明瞭ではない。これは曲輪Iの西側にある曲輪VIIも同様で、西端には虎口形状があり、周囲は切岸加工されているものの、内部は緩斜面を残している。
山の西側にある溜池まで山道が付いており、そこから鞍部に登って西尾根を登るルートがあるが、溜池以降やや崩れたところもあり不明瞭である。
北尾根伝いに登るルートは歩きやすく勾配も緩やかで、途中にある動物除け柵も開口部があるので、このルートが比較的登りやすい。南側からもルートがあるようだが、未確認である。
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