築城年代は定かではない。 南北朝時代には麻原釜額城(かまひたいじょう)と呼ばれ、永和年間(1375年〜1379年)に毛利元春が九州へ出陣中に一族の毛利匡時と毛利直元が釜額城を攻め落とし、直元の家臣が在城した。
戦国時代になると毛利元就の家臣三上新三郎(民部丞のち土佐守)が城主となった。三上氏は井上信三郎が毛利元就の命で三上と改名したという。新三郎の家系は不詳だが毛利元就によって粛正された井上一族と推測される。三上土佐守は永禄11年(1568)播磨国明石浦で海賊と戦って討死している。
土佐守の子は三上豊後守元安で、永禄4年(1561年)には備後国鞆浦の代官を勤め、天正年間(1573年〜1592年)に本願寺一向一揆が籠城したときには兵糧を運んでいる。
釜ヶ城は長見山城の北西に聳える標高370m程の山頂に築かれており、山頂の主郭群と北東尾根の東曲輪群から成る。
主郭は山頂にあり、東西方向に長く伸びて地形なりに弓形状になっている。北側には土塁が付き、中央やや東側で土塁は鈎状に屈折し北へ張り出し横矢掛けになる。主郭の東西両端は一段下がった腰曲輪が付き、西はそこから南の曲輪へと通路がある。南の曲輪からは更に下の曲輪へと通路があり、下段は中央に虎口を開き西側は南へ張り出している。南の張り出しはさらに下へ二段の曲輪が付く。一方主郭の北側は北西尾根に馬蹄形のやや広い曲輪があるのみで、高い切岸による防御になっている。
東曲輪群は北東へ伸びた尾根が東へ屈折する部分に築かれている。 東曲輪群は西の最高所から東へ向かって段々と削平地が連なるが、段差は低く、下へ行くにつれ不整形になっていく。最高所の北側は高い切岸で北下の尾根は浅い堀切が付いている。主郭側へは箱堀があり、不明瞭な段を経て大堀切があり、主郭の東端部となる。
整備された山道はない。この山も動物除けの柵が張り巡らされている。以前登っていたという話を聞いたので南東側のあたりから山へ入る。途中で山道があり、そのまま南尾根の曲輪群の下に出る。下山時にこの道を使って降りてみたが、途中で道は消滅した。 (地図)
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