建武3年・延元元年(1336年)毛利時親によって築かれた。 毛利氏は大江広元の四男季光が父より相模国毛利荘を譲られ毛利氏を称した事に始まる。 安芸毛利氏は建武3年・延元元年(1336年)に毛利季光の孫毛利時親が、越後国佐橋荘から安芸へ下向したことに始まる。
毛利氏はその後代々続き、毛利元就のときに戦国大名となり全山を要塞化した吉田郡山城へと拡張し、毛利輝元のとき広島城を築城して移った。
吉田郡山城の旧本城は郡山城の南端から西南西へ伸びた尾根に築かれている。 旧本城は三つの曲輪で構成されており、本丸・二の丸で呼ばれる主郭部、三の丸、そして東端の曲輪である。
主郭部は西端の最高所で、逆三角形のような形の本丸は北西端に土塁が残っている。東下が二の丸で南北に長い腰曲輪となり、やや北側にある窪地が井戸跡という。北西へ伸びる尾根は高い切岸と二条の堀切で遮断している。
主郭部から箱堀状の窪地を経て東にあるのが三の丸と呼ばれ、一段小高く城台を築いている。
三の丸から堀切を経て東端の曲輪がある。やや不整形な曲輪で東下の尾根に一条の堀切が残る。
吉田郡山城を参照。麓から旧本城を目指すには吉田高校の北側、清神社の東上にある郡山公園から行くのが近い。途中に道標が出ている。
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