築城年代は定かではないが元享年間(1321年〜1324年)頃に山内通資によって築かれたと云われる。 山内氏は始め蔀山城を居城としていたがこれを弟通俊に譲って新たに甲山城を築いて移った。
山内氏は始め比叡尾山城の三吉氏、南天山城の和智氏、大富山城の久代宮氏らと所領の争奪を繰り広げていた。周防国大内氏の勢力が備後に及ぶと大内氏に従ったが、出雲の尼子氏の勢力が増すと尼子氏に属するようになった。
天文9年(1540年)尼子氏が毛利元就の郡山城を攻めると、山内氏はこれに参戦したが尼子氏は敗れた。天文11年(1542年)には逆に大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻めたが、このときは大内方として参戦するも、尼子方に寝返り大内氏の大敗となった。
その後、山内氏は毛利に従うようになり、関ヶ原合戦の後は防長二カ国に減封となった毛利氏に従い長門へ移り廃城となった。
甲山城は標高381mの半独立丘陵に築かれている。南西山腹には山内家の菩提寺であった円通寺がある。
主郭は山頂にあり、中央に小高く本丸、さらにその中央に小さな土壇がある。この主郭の周りを広い曲輪が取り囲み、北が二の丸、南が三の丸とされる。二の丸と三の丸はわずかな低い段差があるだけである。
この主郭部の北東下には広い曲輪があり北東端に櫓台がある。その下は二重堀切でさらに北東尾根に段曲輪が続いている。
山腹にある円通寺まで車で登ることができるがやや道が狭い。麓にも円通寺の駐車場があるのでそれを利用するのが良いだろう。
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