築城年代は定かではないが山内氏によって築かれた。
延徳2年(1490年)山内豊成が栖真院領代官職を三吉湧喜上野介と争ったときに登場する「栖真院領三ヶ村内要害」が当城のことという。
向城は国兼川に沿って西へ伸びた丘陵の西端に築かれている。
単郭の城で、丘陵の西端が南北に長くなっている所に主郭が築かれている。主郭の北側にあるやや急な斜面には畝状竪堀群1、やや緩斜面となる残る三方を横堀1と2、東尾根は横堀2、3、4、5で三重に遮断している。
主郭の虎口は南東の虎口1で、横堀2に土橋が架り、右に折れて入る構造で、南側は虎口に対して張り出しており、厳重である。主郭の切岸はいずれも急峻であるが、北西端のaの部分だけ切岸が甘く、土塁もわずかながら開口している。明確に虎口とは判断できないが、内側には独立した円形の土壇がある。
横堀2は高い所で主郭側が高さ10m、外側は5m、上部の幅は10mほどとこの辺りの山城としては極めて規模が大きな横堀となっている。横堀2の南端は土塁bで遮断されてそのまま竪堀として南山腹に伸び、北は堀切から竪堀として北山腹の墓地へと続く。
主郭から東へ伸びた尾根は横堀2、3、4が堀切として遮断し、そのまま南へ伸びて横堀となる。横堀4と5の間は途切れているが、この部分は後世の改変の可能性があり、もともとはつながっていたものと推測する。
北の墓地に横堀2から続く竪堀があるので、ここから入るのが簡単。ただし低い動物除けの柵がしてあり、開口しない。
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