大永7年(1527年)尼子経久によって築かれたと云われる。
大永3年(1523年)出雲の尼子経久が大軍を率いて南下し、大内氏の鏡山城を攻略、このときには三吉氏や毛利氏も尼子方として戦っていた。しかし、翌4年には山口の大内義隆が安芸に入って尼子方であった武田氏を敗走させ、毛利や山之内らも大内方に靡いた。
大永7年(1527年)尼子経久は再び大軍を率いて備後へ侵攻、大内・毛利軍もこれを向かい打つべく三吉盆地で対峙した。この和知細沢合戦のときに尼子方の陣城として築かれたのがハチが檀城であった。
ハチが檀城は三次東ICの北西に聳える標高360mほどの山に築かれている。
等高線を見てもわかるように、山頂部はかなり広い緩斜面地形が拡がっており、この山頂部に土塁と切岸を中心に巨大な陣城が築かれている。
中心となる主郭はかなり大きく周囲を土塁で囲繞するが、内部は自然の緩斜面である。虎口は非常にたくさんあり、概ね食い違い虎口になっている。主郭にはほとんど横堀を設けず土塁と高さ2m前後の切岸で囲繞している。
主郭の東側には竪堀が何本が入り、北東側はさらに下に南北に長い堀切を設けている。一方北端から西へ続く尾根にも堀切や横堀を設けて曲輪としているが、南側は切岸もほぼなく自然地形に近い形になっている。
この山頂部から南西に伸びた三角点のある地点にも城郭遺構がある。この部分は中心部の様相とは異なり切岸だけの小さな砦となっている。
南麓の民家の脇から山頂下の辺りまで山道が付いており、終点に小屋があるが、いまは道が荒れている。
駐車場もないが南麓の日南集会所に駐めさせてもらった。
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