築城年代は定かではないが鎌倉時代に藤原兼範(三吉氏)によって築かれたと云われる。
藤原兼範の子兼定のとき三吉氏を名乗り三代兼家、四代信兼の頃には三次地方に勢力を伸ばした。 三吉氏は出雲国尼子氏、周防国大内氏の間に挟まれていた。天文9年(1540年)、翌10年(1541年)と出雲の尼子晴久が吉田郡山城の毛利元就を攻めたとき、尼子方として加わったが敗れた。
天文11年(1542年)周防の大内義隆が出雲の尼子晴久を攻めた時には大内氏に従って尼子氏を攻めたが、大内方が劣勢となると尼子方から大内方に靡いていた国人衆が離反して総崩れとなった敗れた。
天文13年(1544年)尼子氏は三吉氏を攻めたが毛利氏の援軍により撃退し以後毛利に属するようになった。その後、比隈山城を築城し居城を移したため廃城となった。
比叡尾山城は鼻敷の熊野神社の北背後に聳える標高421m山に築かれている。 数年前までは竹藪などが生い茂っていたが、近年整備されており非常に素晴らしい遺構を見ることができる。
比叡尾山城は巨大な山城で高土塁を用いた曲輪があり、堀切とそこから伸びる竪堀が長大で数条もの竪堀が谷底まで伸びまさに圧巻である。
主郭は低い段差の曲輪i-1とi-2からなり、虎口1に石段が残り枡形であったという。北背後には高土塁(土1)を設けている。西の虎口2にも石段があって方形に凹み、その先のi-4に続く通路は西側を削って細くしている。
南下に広く残るのが曲輪i-5でl字の高土塁(土3)もさることながら、東にある仕切土塁(土5)がある。
曲輪ii-1から南へ続く曲輪群が別郭で、南の虎口3は左折れで入る構造で外側に虎口受けの段がある。ここから竪堀に両側を囲まれた段曲輪が下へ続き曲輪ii-2、ii-3がある。
谷の東側の尾根には曲輪(iii-1)から続く段曲輪群がある。この曲輪群も石積が多く残る。大手はこの曲輪iiiと曲輪iiの間の谷を登ってくるルートと伝えられるが、曲輪iii-8の南端には東へ降りて行くルートがあり、その脇に竪堀(堀13)を設けている。ちなみに東の谷の山道を登ると、屋敷跡と伝えられる曲輪iv-1に繋がる。
北東背後の谷間にある曲輪iv-1を屋敷跡と伝えており、この部分に高い石垣(石3)が残り、虎口が南東にある。
西の谷筋には巨大な堀切と竪堀、さらに連続竪堀(堀2)などがあり厳重である。山腹には南北に移動できる曲輪v-3とv-4があり、一部湧き水もある。
車で行く場合、山上にある王子谷池のすぐ近くにある駐車場まで行くことができる。ただし、道は狭く離合困難で、しかも以外と車通りが多く、数回訪れたが必ず対向車が数台きてすれ違っている。
下から歩いて登る場合、熊野神社の駐車場が利用できる。熊野神社前に案内板があり、登山道入口(地図)は北東200m程の所にある。
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