築城年代は沙汰かではないが三吉氏によって築かれたと云われる。 三吉氏は比熊山城の出城として積山城を築き、家臣の上里越後守守光に守らせた。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、安芸国広島に入封した福島正則は重臣尾関石見守正勝に二万石を与え三次城主とした。この尾関氏にちなんで尾関山と呼ばれるようになった。
元和5年(1619年)福島正則は改易となり、紀伊国和歌山から浅野長晟が広島へ入封する。
寛永9年(1632年)浅野長晟が没して嫡男浅野光晟が家督を継ぐと、長晟の庶長子であった浅野長治に五万石が分知され三次藩を立藩し、尾関山に下屋敷を構えた。この長治の娘が赤穂浪士で著名な、赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久利(里)である。
三次藩浅野家は長治、長照、長澄、長経、長寔と五代続いたが、享保5年(1720年)長寔が夭折し三次藩は廃藩となった。
尾関山城は可愛川(江の川)に面した比高50m程の丘陵に築かれていた。 現在は尾関山公園として整備されている。
尾関山城は尾関山公園となっており、遊歩道が付くなど多少改変されているようだが、曲輪跡と思われる平段の形状は割と良く残っている。山頂の展望台がある所が浅野時代に発蒙閣が建てられた所で、その下の石見台と呼ばれる平段が本丸とされる。土塁や掘などは見あたらないが、石垣跡らしきものは少し残っている。
尾関正勝の墓が北東にある西江寺(地図)に残っている。写真は比熊山城を参照。
尾関山駅の北西の丘陵が尾関山城で、北側の国道375号線沿いに駐車場がある。駐車場から遊歩道の入口に阿久里姫の像がある。国道を挟んで北東側にある鳳源寺が三次浅野氏の菩提寺である。
最寄り駅(直線距離)