天正19年(1591年)三吉広高によって築かれたと云われる。 鎌倉時代より比叡尾山城を築いて代々続いていた三吉氏は、三吉広高のとき比熊山城を築いて居城を移した。
関ヶ原合戦で敗れた毛利氏は防長二カ国に減封となると、三吉広高は浪人となって京へ上った。しばらくして三次に戻って三勝寺に宿泊したとき、旧城主の落ちぶれた姿に百姓たちが土産を持って寺に集まったといい、これに同情した浅野長晟は二百石の扶持を宛がったという。
比熊山城は尾関山公園の北に聳える標高331.9mの山に築かれている。 戦国時代末期に築城され、未完成のまま廃城となったと推測されており、貴重な山城である。主郭部の櫓台や大土塁、西端にある畝状竪堀群、外桝形状の虎口などが見所である。
山の上は広く高低差の少ない地形で、東西約400m、南北約300m程の規模である。 外側の塁線は直線的で一部に折れがあり、西から南にかけて武者走りがある。北の谷側の造成は甘く塁線がはっきりしない部分も多い。
西から南側は低土塁がついている部分が多いが切岸は低く、下方は緩やかな斜面になっている。畝状竪堀群があるのは西端部分のみであるが、最終的には西から南側面は竪堀で埋め尽くすような縄張であったのかもしれない。
大手は外枡形状になった虎口1である。この虎口から張出Bの間の山腹をつづら折れの道がついていたようであるが、現在は伐採した木が投げ込まれており確認できない。
曲輪IIとIIIの間には内折れする土塁を備える虎口2がある。こちらも南側には小さな張出Aがある。
主郭はほぼ中央にある曲輪Iで、南西隅にやや歪んだ方形の櫓台、東端には大土塁が付いている。主郭から東へ続く尾根は丁寧に削平された曲輪群が階段状に連なり、ここに井戸跡や石積が確認できる。
曲輪IIは西から南の切岸は明瞭であるが、北から東は不明瞭で削平も甘い。
曲輪IIIは中央に一段高く西端に低土塁があり、北は折れを設けてている。南東側が虎口状になるがはっきりしない。西尾根側は低土塁がついて尾根先を二重堀切1で遮断、低い切岸の南方に畝状竪堀群2が残る。
曲輪IVは完成度が高い曲輪で、北側は土塁が折れながら段曲輪が続くがこちらも堀はない。
東麓の西江寺には三吉広高と尾関山城主の尾関正勝の墓がある。大きな五輪塔などが沢山あり分からなかったので寺の人に聞いた所、朱塗の御堂の脇にある五輪塔と宝篋印塔がくっついたような墓が三吉広高、その先から少し登って右側にある同じような墓が尾関正勝の墓と伝えられているようである。
南麓にある尾関山公園(尾関山城)の北側の駐車場に縄張図入りの案内板が建っている。登山道は向かいの鳳源寺から付いている。
近年林道は荒れていて落石や倒木が多くおすすめしない。
前回は麓から登ったのだが今回は北側に付いている林道側からアクセスした。林道はほぼ舗装された道で道幅は十分であるが両側から草木が伸びておりこすりながら登っていく。城の北西側で林道が二俣に分かれる。駐車スペースは草木で埋もれてあまりない。
最寄り駅(直線距離)