『芸藩通志』では「新宮山 志幸村にあり、新宮左衛門所居、天文の比、毛利家に滅せれる、高杉村祝家の分知なりし、高すぎ村の二宮社を此の山に勧請し、新宮と称せしより、山の名、とも、氏ともせりといふ、」とある。
高杉城主祝家の家臣新宮左衛門が守っていたが、天文22年(1553年)に毛利氏に攻められ落城、新宮坂で自刃したという。
新宮山城は馬洗川南岸の比高30mほどの丘陵に築かれている。
小規模な城で、主郭は南北に長い楕円形で南端と東辺の一部に土塁がある。 東下には腰曲輪IIがあり、南辺は土塁があるが、北側は切岸が不明瞭になって自然傾斜する。また北西下にも小規模な削平地IIIが確認できるが、北側が福塩線によって削られているため、不明である。
南背後は墓地や道路になっており、堀切があった痕跡は確認できない。
国道184号線沿いに木製の看板があるが、古くなってわかりづらい。ここを入った所に案内板と鼻塚がある。
城の入口は南側に回り込んだ所にあり標柱がある。そこから西へ進むと首塚・耳塚・経塚の標柱があり、石塔の一部らしきものが散らばっている。
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