『芸藩通志』には「笠城山 絲井村にあり、絲井孫右衛門所居」とある。
『日本城郭大系』によれば、笠城山城糸井氏は旗返山城江田氏の勢力下にあり、大内義隆が陶晴賢によって討たれたのち、大内氏から尼子氏へ鞍替えしたことから、天文22年(1553年)毛利元就によって攻められ、旗返城江田氏は陥落、笠城山城は後に和泉三郎五郎信行に与えられた。
笠城山城は美波羅川に沿って北東に伸びた山の頂部に築かれている。
主郭は山頂にあり中央がやや小高く小さく三段ほどに分かれている。主郭から南西に伸びた尾根は連続堀切2で遮断し、さらに少し離れたところを箱堀である堀切1で遮断している。主郭の南側面には畝状竪堀群3、北側面にも堀切から伸びる竪堀と並んで竪堀がある。
主郭の虎口は北東端の虎口1と南東の虎口2が考えられる。虎口1は石積で固めたスロープで入る構造、虎口2は一段低い方形の窪みがあり、一部は石積を伴っている。
主郭の東下にあるのか二郭で、内部は傾斜しており低い段加工で多数の段に分かれているが不明瞭である。切岸も主郭ほど明瞭ではなく自然傾斜のままとなっている部分もある。
二郭の東下にある地形aの部分は本来は堀切で、南は竪堀4、北も竪堀とくっついていたと考えられるが、現状では外側を土塁状にした腰曲輪のようになっている。その外側には帯曲輪状になった地形bがある。後世の改変ととらえることも可能だが、帯曲輪bは横堀として造成し、これにともなって堀切だったaを埋めて曲輪としたとも考えられるであろう。
主郭の東側の切岸、aの周囲には石積が多数残されている。
城山の北東にある糸井土居館が居館と考えられている。
北東麓に一軒の民家があり、その脇から農道を進むと終点に笠城山登山道入口の看板がある。入口に駐車可能だが、民家の方に一言声をかけておくのが良いだろう。
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