詳細不明。城主は敷名氏と伝えられる。また、毛利元就の異母弟の相合元綱が城主とも伝えられる。
明応6年(1497年)毛利弘元は山名俊豊と弟到豊との争いで俊豊を助けて備後に兵を出し、この功によって敷名郷を与えられている。
毛利元就と後継者争いで大永4年(1524年)に誅された相合元綱の城ともいわれ、天文2年(1533年)毛利元就は敷名民部大輔の籠もる大笹山城を攻め落とし、元綱の子の元範に与えた。これにより元範は敷名元範と名乗った。
沼原城は美波羅川の北西側にある標高360m程の山に築かれている。
山は比較的緩やかな斜面でそのまま山頂に至るが、主郭は周囲を5mほどの切岸で一段小高くなり、東に伸びた尾根に曲輪IIがある。
主郭は西側にスロープがあり、これが虎口の可能性がある。スロープの西側には上下二段で連続竪堀2があり、その間のaは横堀状になる。そこから西へ伸びた尾根には堀切3があり、さらに緩斜面尾根が続くがその先にあるのは池管理のためか山道の切通である。
主郭から南西に伸びた尾根には竪堀とハの字になった堀切と思われる窪みがあるが、不明瞭である。南下には細い山道があり、東端部が竪堀状になる。
主郭の東下にある曲輪IIには土塁があり、北側の土塁は一部石積らしきところもみられる。東端北側に竪堀状地形があるが、堀切は見当たらない。
主郭から北東に伸びた尾根は連続堀切5がある。この部分は三重堀切の可能性があるが、不明瞭である。その西から北側面に三条の畝状竪堀群1がある。この竪堀と主郭の間は緩斜面地形であるが切岸はなく、不明瞭な凹凸が確認できるが、城郭遺構として復元するのは難しい。
国道375号線から蔵谷橋を渡り、城山の西側の谷から山の北側に回る車道がある。北側には工場や土砂処理場があるが、その辺りから山に取り付くとすぐに山頂に達する。
最寄り駅(直線距離)