詳細不明。
はじめ田総の長井氏の一族長井加賀守元勝の居城で、のちに和智氏の一族仁賀四郎左衛門、その子勘解由の居城という。
友永城は上下川と本村川が合流する地点の北東にある標高265mの山に築かれている。
北背後のなだらかな尾根を二重堀切1で遮断して南側を曲輪としている。 主郭部は三段の曲輪で北端には高土塁を設けている。曲輪IIに小規模な基壇跡があり、参道は曲輪III西端部分からついていたようである。また主郭の土塁下にも基壇跡のようなものがある。曲輪IIとIIIの通路は折れたスロープとして設けられており、これは城の構造を踏襲しているものと思われる。
北尾根を遮断する二重堀切1は内側が深く、外側は一段高い部分に浅い堀を設けている。
主郭の側面には横堀を挟んで二段になった畝状竪堀群がある。上段の畝状竪堀群2は短いコブ型のもので、下段の畝状竪堀群4は堀込んだ竪堀になっている。間にある横堀は北端が竪土塁でL字に曲がり緩やかに南に降るような構造で、南端は竪堀5に繋がる。
西側の民家の上のあたりに小さな作業小屋が見える。この奥からつづら折れの山道があって城の背後の尾根上に達する。車は仁賀コミュニティセンターに駐めさせていただいた。
最寄り駅(直線距離)