築城年代は定かではないが長井氏によって築かれたと云われる。
長井氏の祖は毛利氏と同じく大江広元であるが、毛利氏が大江広元の四男季光を祖とするのに対し、長井氏は次男時広を祖とする。
長井氏の田総庄下向の時期は定かではないが、一説に文永6年(1269年)長井泰重から田総庄地頭職を譲与された長井重広のときと云われる。
長井氏は九代信濃守時里のときに田総氏を称して後に毛利氏に従った。関ケ原合戦によって毛利氏が防長二カ国に減封となると、田総宗左衛門尉元勝はそれに従って移ったが、その子元好が故あって浪人となった。子孫は後に長州藩士に戻っている。
川平山城は田総川に面した比高140mほどの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
南へ伸びた尾根の先端頂部に主郭があり、そこから東と南の尾根に曲輪を展開しており、オーソドックスな縄張になっている。
主郭は北端が一段小高くなっており、北背後を遮断する大堀切1はあまりに規模が大きく幅は30m、深さも20mほどはあるだろうか。現在でも降りるのが難しいほど切り立っている。南東下の曲輪IIに至る通路沿いに大きな井戸の窪みが残る。
主郭から東へ伸びる尾根には東西に長い曲輪IIと曲輪IIIがあり、その先を堀切2で遮断する。この堀切も規模が大きく竪堀が長く伸びる。堀切から東側にも小さな段曲輪群VIが続いている。
南尾根は広い曲輪IVと、曲輪Vの二段の曲輪がある。
南の県道沿いに案内板が設置されており、その奥の谷沿いに入る山道が主郭まで通じている。
車は入口付近か、川の南にある運動公園の辺りに駐車できる。
かつては公園整備されて東屋などもたっているが、近年はあまり手入れされていない印象である。
最寄り駅(直線距離)