築城年代は定かではないが柚谷新三郎元家によって築かれたと云われる。 柚谷元家は南天山城主和智誠春の弟で湯谷又八郎久豊とも名乗った。
和智氏の居城である南天山城の支城として築かれたもので、元家もまた福山城を築いて支城とし、子の湯谷又左衛門実義に守らせた。
永禄6年(1563年)毛利元就の嫡男隆元は豊後の大友氏との和議が成立したため、出雲の尼子攻めに向かった。この途上安芸国佐々部にて和智誠春・柚谷新三郎元家(湯谷久豊)らの饗応を受けた隆元は、その後に急病を発して翌日死亡した。元就は和智氏らが毒殺したものとして永禄12年(1569年)誠春と元家を厳島に幽閉し誅殺した。城主を失った萩原城では籠城する兵もおらず毛利氏の追討軍によって落城したという。
萩原城は標高390mの山に築かれている。灰塚ダムの建設によって周辺の地形が変わっており城の遺構も多少影響しているようであるが、概ね良好に残っている。
主郭は山頂にあり大きく東西二段の曲輪である。概ね北側に土塁があり、西下の曲輪は北東隅に虎口がある。虎口の外側とその西側に一条竪堀を設けており、主郭の北下にある堀切のほうに通路が付いている。東上の曲輪にも北側に開口部があるが、外側が倒木のために虎口なのかどうか判断できない。
主郭の東下と北下に堀切があり、北側は堀切の先に曲輪があり、北西下と東下に堀切を設けている。
主郭の西下は大きな堀切で、その先は自然の緩傾斜面が続き二郭に至る。 二郭は東背後に土塁と大堀切で遮断し、西側も堀切によって遮断している。
二郭から西先端に降りていく途中に西下の尾根側に対して弧状に土塁が付いた小郭がある。曲輪の内側が少し掘り下げられたような曲輪である。
西の尾根の先端にも曲輪群があり、東背後を大堀切で遮断し、その後側にも浅い堀切か竪堀を配している。堀切に面した部分は櫓台程度の土壇で、下に一段、少し降って現在法面加工さた先端部分に広い曲輪が残っている。
灰塚ダムの大谷植物園方面に進んだ所にあり、西の先端が法面加工によって大きく削がれている。登り口は北側の道路沿いにあり、法面加工の内側に通路が付き、その先に階段がある。これが途切れた部分は急斜面で、よじ登りたくなるがフェンスに従って登っていく方が安全で、現状西の先端にある曲輪へと通じている。
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