築城年代は定かではない。城主として赤松山城守則久、加板原氏などが伝えられるが詳らかではない。
貞治4年(1365年)室町二代将軍足利義詮が山内肥前守通継に宛てた書状に、和智師実が平松城に籠もっていることが記されており、この頃には和智氏の城となっていたことが知られる。和智氏は資実の時に和知から吉舎へ移り、はじめに居城としたのが平松山城で、後に南天山城を築いて居城を移したと云われる。
和智氏は南天山城を居城として代々続き、和智誠春が城主であったときには弟の柚谷郎元家(湯谷久豊)が守っており、その後、元家は萩原城主となって移った。
平松山城は吉舎駅の北東に聳える標高370m程の山に築かれている。 平松山城は単純な曲輪の面積からいえば、和智氏の本城とされる南天山城を優に凌ぐ規模を誇っている。
標高370m付近が主郭、西峰の頂部に曲輪II、これらから派生する尾根や山腹に無数の段曲輪を備えており、曲輪の面積はかなり広い。また南尾根に曲輪群Xがあるが、これは独立した城といってもよい。
尾根上の曲輪群は非常に広く削平されているが、明確な土塁があるのは主郭の北東部の一部のみで、虎口も判然としない。
尾根先に築かれた段曲輪群は細長い曲輪を段々に配置し、外側には武者走りを設けている部分が多い。先端部は高く急峻な切岸になっている。
東背後は鞍部に多重堀切1を設け、北側面と東側面にはそれぞれ畝状竪堀群2、3を設けている。
西尾根の二重堀切7と南尾根の堀切8は急峻な切岸からやや離れた緩斜面に堀切を設けている。堀切はやや間隔を明けてハの字に竪堀を組み合わせているが、二重堀切7は下方の堀切は完全に尾根を遮断している。
北の堀切6は降りるのも容易でない切岸下に岩盤を削って堀切を設けている。
南尾根の曲輪群Xは独立した城としてもよく、北背後の尾根に二条の堀切を設けている。南の尾根先側は城域の区画がはっきりせず、ダラダラと自然尾根になっていく。
全体的にみると曲輪群Xは初期の平松山城とも考えられ、のちに山上の平松山城が築かれて出城のような存在になったのではないだろうか。
登山道は南から登るルートと北の谷筋から登るルートがあるが、北側は倒木やルートがわかりづらいので、南側から登る事をおすすめする。
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