備後 南天山城びんご なんてんざんじょう

城郭放浪記


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備後 南天山城の写真
掲載写真数
形態
山城(330m/120m)
別 名
矢の城
文化財指定
市指定史跡
遺 構
土塁,郭,堀,井戸
城 主
和智氏
歴 史

築城年代は定かではないが和智氏によって築かれたと云われる。 和智氏は本姓藤原氏で、波多野実方が保元元年(1156年)武蔵国大蔵谷合戦の恩賞として武蔵国広沢郷を賜って広沢氏を称し、建久3年(1192年)実方は平家追討の功によって備後国三谷十二郷、和田村の地頭職となり、実方の三男実村が三谷郷西方を領して下向し、その子三郎次郎実成が和智氏、実綱が旗返山城主の江田氏の祖となった。

和智氏は資実のときに和知から吉舎へ移った。はじめは平松山城を居城としたと云われ、その後に南天山城を築いて居城とし、以後師実・氏実・時実・豊実・豊広・豊郷・誠春と代々続いた。

和智氏は当初備後国守護職の神辺城主山名氏に属していたが、応仁の乱の後は周防の大内、出雲の尼子の狭間にあった。大永2年(1522年)尼子経久は安芸の鏡山城を攻略した帰路、南天山城を取り囲み城主の和智豊郷は降伏、一時尼子氏に従った。天文22年(1553年)毛利元就が旗返山城の江田氏を攻めたとき、同族である和智誠春は毛利に従っていた。

永禄6年(1563年)毛利元就の嫡男隆元は豊後の大友氏との和議が成立したため、出雲の尼子攻めに向かった。この途上安芸国佐々部にて和智誠春・柚谷新三郎元家(萩原城主で誠春の弟)らの饗応を受けた隆元は、その後に急病を発して翌日死亡した。元就は和智氏らが毒殺したものとして永禄12年(1569年)誠春と元家を厳島に幽閉し誅殺した。和智氏は誠春の嫡男元郷が起請文を提出して許され、家督を継いでいる。

説 明

南天山城は吉舎町中心部の南東に聳え、馬洗川に面して北へ伸びた山に築かれている。 大きく山頂の主郭部と北尾根先の曲輪群とに分かれている。

主郭は山頂にあり南背後に高土塁を設け、北に大きく四段の曲輪から成る。南背後は大きく下がった鞍部でその下方に堀切を設けており、南下から南西下へと回している。この堀切から東へ降りた山腹に出丸があり、南側の谷に面した土塁の付いた曲輪となっている。

北尾根の曲輪群は主郭部から大きく降った所に井戸と竪堀が一条あり、そこから北へ伸びた尾根に階段状に曲輪を連ねる。所々東西両側に帯曲輪が付き、北端の広い曲輪は南北に区切る土塁も残っている。

案 内

尾崎山公園・善逝寺を目指せば良い。善逝寺の参道入口付近に駐車場があり、そこから清正公神社の参道入口に案内板が建っている。この清正公神社の境内から主郭まで道がある。

最寄り駅(直線距離)
1.5km 吉舎駅
5.2km 備後安田駅
6.4km 三良坂駅
6.6km 梶田駅
8.7km 甲奴駅
所在地/地図
広島県三次市吉舎町吉舎
付近の城(直線距離)
0.7km 備後 丸小山城
2.2km 備後 平松山城
3.0km 備後 登美志山城
3.1km 備後 城山城(吉舎町)
3.5km 備後 馬乗山城
3.8km 備後 陣山城(吉舎町)
4.0km 備後 堂元山城
4.3km 備後 福原土居館
4.6km 備後 茶臼山城(甲奴町)
4.7km 備後 赤城(吉舎町)
4.7km 備後 陣山城
4.7km 備後 奥尾山城
5.2km 備後 上野山城
5.4km 備後 溝口山城
5.8km 備後 池尻城
6.2km 備後 谷平山城
6.5km 備後 龍王山城
6.5km 備後 福山城(三良坂町)
6.5km 備後 鳶巣山城
6.6km 備後 頭士山城
6.8km 備後 丸小山城
6.9km 備後 萩原城
7.1km 備後 的場山城(三良坂町)
7.5km 備後 赤城山城
最終訪問日
2013年3月
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