築城年代は定かではないが和智氏によって築かれたと云われる。 和智氏は本姓藤原氏で、波多野実方が保元元年(1156年)武蔵国大蔵谷合戦の恩賞として武蔵国広沢郷を賜って広沢氏を称し、建久3年(1192年)実方は平家追討の功によって備後国三谷十二郷、和田村の地頭職となり、実方の三男実村が三谷郷西方を領して下向し、その子三郎次郎実成が和智氏、実綱が旗返山城主の江田氏の祖となった。
和智氏は資実のときに和知から吉舎へ移った。はじめは平松山城を居城としたと云われ、その後に南天山城を築いて居城とし、以後師実・氏実・時実・豊実・豊広・豊郷・誠春と代々続いた。
和智氏は当初備後国守護職の神辺城主山名氏に属していたが、応仁の乱の後は周防の大内、出雲の尼子の狭間にあった。大永2年(1522年)尼子経久は安芸の鏡山城を攻略した帰路、南天山城を取り囲み城主の和智豊郷は降伏、一時尼子氏に従った。天文22年(1553年)毛利元就が旗返山城の江田氏を攻めたとき、同族である和智誠春は毛利に従っていた。
永禄6年(1563年)毛利元就の嫡男隆元は豊後の大友氏との和議が成立したため、出雲の尼子攻めに向かった。この途上安芸国佐々部にて和智誠春・柚谷新三郎元家(萩原城主で誠春の弟)らの饗応を受けた隆元は、その後に急病を発して翌日死亡した。元就は和智氏らが毒殺したものとして永禄12年(1569年)誠春と元家を厳島に幽閉し誅殺した。和智氏は誠春の嫡男元郷が起請文を提出して許され、家督を継いでいる。
南天山城は吉舎町中心部の南東に聳え、馬洗川に面して北へ伸びた山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭部は主郭IからVまでの曲輪群で、北に向かってII、III、IVと丁寧に削平された曲輪群が続く。虎口は不明で、現在は西端部分に登山道のスロープが付けられている。
北東尾根は曲輪VIIを南端に北端のXIIIまで低い段差で曲輪が連なっている。途中に堀切などはなく一直線で、概ね東側に通路がある。北端の曲輪XIIは中央に仕切土塁があり、両サイドがわずかに開いている。
谷を挟んだ西側の尾根には曲輪VIがあり、谷間部分にも四段ほどの平地が確認できる。大手は不明であるが、この谷筋を登り東の曲輪群に登っていたと推測でき、谷の入口には腰曲輪XIVなどが設けられている。
主郭の南背後は大堀切1で堀底は内側がさらに掘りこまれ両サイドに竪堀として伸びている。その脇には堀切2を設けている。
主郭の両サイドには連続竪堀3と竪堀4があるが、竪堀というよりは削り残した竪土塁のような遺構である。これは曲輪Vの東下にある連続竪堀5も同様である。
大堀切1から南に続く尾根には曲輪XVIがある。甘い削平で同心円状に帯曲輪を設けている。
主郭の南東下には曲輪XVがある。西の谷間方面に高土塁を設けた二段の曲輪で主郭南の谷を警戒している。
尾崎山公園・善逝寺を目指せば良い。善逝寺の参道入口付近に駐車場があり、そこから清正公神社の参道入口に案内板が建っている。この清正公神社の境内から主郭まで道がある。
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