築城年代は定かではないが長禄・寛政年間(1457年〜1466年)頃に大内氏によって築かれたと云われる。
南北朝時代から安芸国東西条の地は周防の守護大名である大内氏の所領で、この地の拠点として築かれたのが鏡山城で、大内氏の重臣が城番として置かれた。永享11年(1439年)室町幕府は東西条の地を大内氏から取り上げ、高山城の沼田小早川氏に与え、安芸国守護職の武田信賢の代官が鏡山城を守っていたが、その後大内氏によって奪い返された。
大永3年(1523年)出雲の尼子経久は大軍を率いて安芸へ侵攻し、八幡山城や陣ヶ平城に布陣した。尼子氏の攻撃に対して鏡山城の蔵田備中守房信は固く守り敵を寄せ付けなかったが、尼子方として参陣していた毛利元就の誘いに乗って蔵田日向守直信が内応し鏡山城は落城した。この戦いの後、毛利氏の当主であった幸松丸が病死し、元就が家督を継ぐと、尼子氏から離反して大内方となった。
大永5年(1525年)大内氏は安芸へ侵攻し、鏡山城の奪還にも成功した。その後は安芸支配拠点を杣城や槌山城へ移し鏡山城は廃城となった。
鏡山城は標高335mの鏡山山頂に築かれており、現在は国指定史跡として整備されている。
鏡山城は鏡山一帯に築かれた城で、主郭部は山頂にある1郭(御殿場)、2郭(中のダバ)、3郭(馬のダバ)、4郭(大手門跡)、5郭(下のダバ)から成る。
山頂に東西に並ぶ1郭と2郭が主郭、南下にある3郭は主郭への入口で、4郭は南の大手門跡、5郭が二ノ丸に相当する。西の尾根は二条の深い堀切とそこから伸びる竪堀によって防御し、東尾根も堀切と連続竪堀によって遮断する。北側の山腹には畝状竪堀群を設けている。
鏡山公園に駐車場があり山頂まで遊歩道が付いている。
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