天文2年(1533年)宮高盛によって築かれたと云われる。はじめ東城町久代を本拠としたことから久代宮氏とも呼ばれ、高盛は九代という。
宮氏は亀寿山城の宮氏の庶流と考えられているが、久代記では応永6年(1399年)に初代利吉が大和国宇陀郡から備後国奴可郡久代へ遠流されて土着したとする。
もともと五品嶽城を居城としていたが大富山城を築城し居城を移した。これにより西条と呼ばれていた地名は西城と改められ五品嶽城のある地は東城と呼ばれるようになったと云う。
天正18年(1590年)11代宮広尚のとき毛利輝元の怒りをかい、伯耆国日野(一説には出雲国塩谷)に移封させられた。
大富山城は西城川に沿って北へ伸びた山塊の北端、標高511.2mの大富山に築かれている。
大富山城は大富山山頂を中心とする主郭部とそこから南へ伸びた尾根に築かれている南尾根遺構からなる大規模な山城で、南北の規模はおおよそ1000m程もある。城主の居館は北東麓、宮氏の菩提寺は南山腹にある浄久寺、東の麓には宮氏の重臣安江氏の墓がある。
主郭部は山頂に広く主郭があり一段下がって同心円状に曲輪が回っている。そこから東へ腰曲輪が続いており、上の曲輪iiiを「あやめの段」、下の曲輪ivを「菊の段」と呼んでいる。菊の段の東端に石積された虎口状の遺構がある。
南尾根遺構は主郭との間の林道から南の尾根にある。この林道はもともと大堀切であったという。林道からすぐ上に登った所から曲輪の遺構が続いており、さらに一段高い山に登ると曲輪xiiへ至る。この曲輪xiiは低い切岸ながら複雑な地形をしており、通路も何通りか確認できる。ここから南はほぼ自然地形で岩場などが続いているが、その先に曲輪xiiiがあり「古天神」と呼ばれている。
南尾根の最高所標高500mの所に曲輪xivがあり「物見が丸」、この東下に「能楽寺が丸」がある。この曲輪群は南尾根遺構の主郭に辺り、三方に伸びる尾根を三重堀切で遮断している。
大富山城で注目するべき遺構が西山腹にあり、30条弱の畝状竪堀群を設けている。大堀切から西へ降りて行く道があり、その先にも大きな2段の平場がある。この先は「的場」という地名が残されていることから、こちら側にも遺構が拡がっている可能性がある。
徒歩で登る場合、北麓の西城小学校の南側に登山道入口がある。車の場合は南の浄久寺へ向かい、そこから未舗装ながら林道があり主郭と南尾根遺構群の間の大堀切まで行くことができる。
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