築城年代は定かではないが大永・享禄年間(1521年〜1532年)頃に宮景友によって築かれたと云われる 宮氏は比田山城を居城としていたが六代景友が五品嶽城を築いて居城を移したと云う。
七代高盛は大富山城を築いて居城を移し、五品嶽城には家臣渡辺七郎左衛門尉に守らせた。宮氏は毛利氏に属していたが高盛の時、毛利輝元の怒りをかって伯耆国日野(一説には出雲国塩谷)に移封となり、変わって佐波越後守広忠が城主となった。
関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二カ国に減封となると、広島へ入封した福島正則の家老長尾一勝が城主となったが、福島氏が改易されると廃城となり、長尾氏は津山へ去った。
五品嶽城は東城町の西に聳える標高488mの城山山頂に築かれている。現在は県指定史跡として整備されている。
山頂の主郭から東へ伸びた尾根に大きく四段の曲輪を配して主郭部とする。本丸の西側面一帯、南東虎口、二郭周辺には石垣が点在している。石垣は高石垣ではなく何段かに分かれていたようである。また隅部を欠いており破城処理しているのかもしれない。本丸から西へ伸びた尾根は浅い三条の堀切で遮断、北側山腹に畝状竪堀群がある。
主郭部東端から北のケヤキ平、カヤ平へと降りて行く途中にある曲輪の西側に隅部が残る石垣がある。この辺りの曲輪は谷の外側に土塁を設け、カヤ平には石積井戸が残る。
本丸から東へ続く腰曲輪の一番下と杉の平との間の山腹に八条の畝状竪堀群があり、これは『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』の縄張図に描かれていないものである。
福島氏時代の城主である長尾氏の菩提寺が東城駅の北東背後にある千手寺で、供養塔がある。
登山道は世直神社から続いている。国道314号線が南下して城山の東で東に向かって折れているが、この部分に観光者用の無料駐車場ができたので、これを利用することができる。
最寄り駅(直線距離)