築城年代は定かではないが文治元年(1185年)頃に市川行房によって築かれたと云われる。 市川氏は甲斐国八代郡市川の発祥、源頼朝の御家人で治承・寿永の乱(1185年)の後に備中国野馳郷に入部したという。
天文2年(1533年)備後国五品嶽城主宮高盛が備後国大富山城を築いて居城を移すと同時に西山城を修築し、東方の要として要害山城と改め城番を置いた。
西山城は野馳小学校の南東に聳える標高510m程の要害山に築かれている。
南北に伸びた山頂部にi,ii,iiiと曲輪を連ねている。曲輪viは北から西側面を帯曲輪となって巡り、南端に虎口1がある。この虎口1に対して曲輪iの西下に張り出しの小さな段を設けている。
西山城は南東側を除く全ての尾根に多重の堀切を設けているのが最大の特徴で、堀切は連続している部分もあるが、大半はやや間隔を開けている。
野馳小学校の南西側に案内板がある。ここからその脇の道を東へ登っていくとグラウンドの脇を通り、やがせ未舗装の林道になる。この先に溜め池があるが、その少し先から折り返して登っていく山道がある。これを真っ直ぐ登っていけば堀2の所にでる。
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