築城年代は定かではないが観応元年・正平5年(1350年)以前に毛利親衡によって築かれと云われ、匡時の代から坂氏を名乗り代々居城した。
観応3年・正平7年(1352年)の観応の擾乱において親衡・匡時父子は南朝に属したため北朝方の安芸守護武田氏信に攻められるが約半年籠城し南朝方の直冬の援軍がくるまでよく凌いだ。
大永2年(1522年)毛利氏が大内氏から尼子氏に属した後も、坂広時は大内方に留まることを主張したため、尼子経久から坂氏の攻撃を迫られた毛利元就は、やむなく日下津城を攻め広時を自刃させた。 坂広秀は大永3年(1523年)毛利元就が宗家を相続するにあたっては郡山入城を要請する書状に連署した重臣の一人であったが、翌大永4年(1524年)には元就の異母弟相合元綱を担いで宗家を乗っ取ろうとする計画が失敗し謀殺された。広秀の後は坂氏庶流の志道広良の子元貞が坂氏を継いだ。
日下津城は三篠川の南岸、標高298mの山に築かれている。
最高所の曲輪iから北西に伸びた尾根先に向かって段々と曲輪が連なり、北端の一段小高い曲輪viが物見と呼ばれている。主郭は北西隅に虎口と思われる小さな空間があり、現状曲輪iiから石段が付けられている。曲輪iv、v、viiは現在の登山道は北側に面して付けられているが、段曲輪間の通路は南側にあったと思われる。
主郭から南へ伸びた尾根は主郭下に大きな空堀3があり、それより南側に両側に落ちる連続竪堀5の遺構がある。もともとは連続堀切であった可能性もあるが、尾根上部分は不明瞭ではっきりしない。このような地形は多治比猿掛城にも見ることができる。また、主郭の東下には小さな腰曲輪を挟んで連続竪堀があり、腰曲輪の一つには井戸とされる大きな凹みが残る。
北西尾根の先端には堀切1があり、そこから北へ伸びる竪堀の下方に連なるように畝状竪堀群2がある。この竪堀は短く5m程しかない。東へ回り込むと擂り鉢状になった曲輪ixが目を引く。主郭を含め他の曲輪に明瞭な土塁は見あたらないが、この部分のみ土塁があり、西側は自然地形も含め大きな竪堀状地形となる。
大手は不明だが、現状北麓から続いて曲輪viiに入る道は妥当なルートと思われる。もしくは南の谷筋を西から登ってくるルートか。
北側の県道に面して案内板が設置されている。ここから登ると墓地があり、その奥に獣除けの柵が設置されているので、外して入ることができる。
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