築城年代は定かではないが内藤教泰によって築かれたとも云われる。
内藤氏は厳島神社神主の佐伯氏の一族で鎌倉時代に長田郷の地頭職に任ぜられた。 永禄7年(1566年)毛利元就は出雲の月山富田城主尼子義久を攻めて降伏させたが、義久とその従者は内藤氏に預けられ、円明寺の屋敷に幽閉された。
田屋城は標高280mから北へ伸びた尾根に築かれており、現在は登山道が整備されている。
最高所の主郭から北に向かって大きく三段の曲輪があり、いずれも東側を土塁として削り残している。
主郭には石垣を用いた低い段を造成しており、西から東に向かって中央にスロープが付いている。曲輪IIには石組み井戸が残り、曲輪IVは荒神社跡であったようだ。
主郭背後は大きな二重堀切3があり、西側に二条の連続竪堀2がある。二重堀切の東端はそのまま自然地形の大きな谷が竪堀状になって麓付近まで伸びている。また、北端にも小さな堀切1が確認できる。
カタクリの里に案内板があり、その隣の空き地が駐車場である。駐車場から奥に見える民家の脇から柵を開けて山に入る。山に入ると墓地があるが、その右脇を登るとさらに柵があり、そこから山に入って柵沿いにある小路を進めば曲輪IVに至る。
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