築城年代は定かではないが永正13年(1516年)頃に三吉致高によって築かれたと云われる。
三吉氏が領地を接する宍戸氏、さらに所領を拡大している毛利氏に備えるために築いた境目の城で、中村石見守慶久が守っていた。
天文9年(1540年)出雲の尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城を攻めるために南下してくると、先発隊の尼子国久らが八幡山城に布陣した。国久は毛利方の宍戸氏の家臣深瀬隆兼が籠もる祝屋城を攻めたが、これを攻略できず出雲に引き上げている。
八幡山城は明光山から南西に伸びた尾根の先端、標高240m程の丘陵に築かれている。
主郭は山頂にあり中央に一段小高い土壇があり、かつてここには神社が祀られており、その基壇や参道の石段などが残る。この中央の土壇を囲むように曲輪が拡がり東側が一段高い。西に二段の段曲輪があり、曲輪iiには井戸跡らしき大きな凹みが一つ、曲輪iiiは北に土塁を設けており、一部は内側と外側に石積が確認できる。
石積は主郭部や曲輪iiiに確認できるが、主郭部の石2は後世の石積のように思える。ただその横にある虎口脇にも石積が確認できる。
北側の谷間に向かって幅広の連続竪堀(堀2)を設けており、尾根は堀1によって多重に遮断している。この堀1に対して小さな連続竪堀(堀3)を設けている。
西麓の民家の脇から神社の参道がある。
案内板は城から少し離れた県道37号線沿いにある「aコープかわち」(地図)の駐車場にある。
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