築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)に茂木三郎知基によって築かれたと云われる。 茂木氏は八田知家が源頼朝より得た下野国茂木保の地頭職を三男知基に譲り、茂木氏を名乗ったことに始まる。
建武3年(1336年)茂木知貞・知世父子は北朝方として各地を転戦するが、留守中に南朝方の北畠顕家に攻められた。
天正13年(1585年)北条氏政によって茂木城は一時奪われたが、佐竹義重によって奪い返された。文禄3年(1594年)茂木治良は佐竹義重の命によって常陸国小川城に転封となり、代わって佐竹家臣の須田盛秀が茂木城代となったが、慶長7年(1602年)佐竹義宣が秋田へ転封となり廃城となった。
茂木城は茂木町の北方にある桔梗山に築かれており、現在は城山公園として整備されている。
この茂木城は縄張図を見たとき、他の山城とは全く違う印象を受けた城である。茂木城の築かれている桔梗山は、山上は多少の高低差はあるものの、概ね平坦で広大な地形になっている。南の山裾には北上してきた逆川が東へと大きく進路を変えるように流れている。 この余り高さの変わらない山上の南端部分を北の大地から切り離すように、北側に空堀と横堀を設けている。そして切り離した台地の中央を取り囲むように、各曲輪が円形に設けられ、外側を防御する形になっている。
南西端には東西に長い長方形の本丸があり、西端はコの字状に高土塁がある、北側の裾部には浅い空堀が東西に走り、北西側では二ノ丸と区画する空堀となる。 二ノ丸は西側中央にあり、植林された平坦な地形で土塁はない。北端に薮化している部分が三ノ丸で、二ノ丸との間は空堀で区画される。三ノ丸の北側は横堀になっており、横堀の西端は二ノ丸と三ノ丸の間の空堀と合流する。この三つの曲輪が中央の千人溜まりを囲むように配置され、東側に南北に空堀が走る。台地の南東端にあるのが出丸でここに櫓を模した展望台がある。
主郭はこの南西端にある長方形の高台で、西側をコの字状の高土塁が巡っている。主郭の北西側に南北にやや長い曲輪が二郭、北側に東西に長い薮化した曲輪が三郭。この三つの曲輪が中央を取り囲むようになっており、中央の広大な平地は「千人溜り」と呼ばれている。
国道123号線と294号線と大町交差点の一本東側に北に入る道があり、そこを北上して橋を渡り突き当たりを左へ曲がって道なりに行くと城山公園上まで続く車道がある。
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