建久8年(1197年)千本十郎為隆によって築かれたと云われる。 千本氏は那須資隆の子で為隆が祖で、那須与一宗隆の兄にあたる。為隆自身は千本を称しておらず、平家滅亡の後、信濃国戸福寺に隠れていたことから、戸福寺十郎を称した。 千本氏を称したのは資持のときからといわれ、それ以前は須藤氏を名乗っていた。
天文20年(1551年)千本資俊は宇都宮氏の家臣芳賀高定の謀略によって、烏山城主那須高資を千本城にて謀殺した。主君を謀殺した資俊ではあったが、那須家の家督を継いだ那須資胤に許されて再び家臣となっている。しかし、資胤が没して那須資晴が家督を継ぐと、大関高増の陰謀もあって天正13年(1585年)烏山の太平寺で千本資俊・資政父子は謀殺された、那須系千本氏は滅亡した。
その後、茂木三郎の次男四郎義政が千本氏を称して千本城主となり、茂木系千本氏となった。義政は後に千本大和守義隆と改名し、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に参陣して二千七十石の所領を安堵された。千本義隆の子義定は関ヶ原合戦で東軍に属して三千三百七十石に加増され大身旗本となり、江戸時代には千本陣屋を構えていた。
千本城は尾軽集落の西にある山の山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって羽黒神社が鎮座する。主郭は山頂の地形に沿って北東から南東に長く伸びた曲輪で周囲には土塁が付いている。北東下の尾根には堀切が設けられ、帯曲輪が付いている。
主郭の南西下を取り巻いているのが二郭で、東側に虎口が開いている。 主郭と二郭との間は現在車道が付いているが、この道がそのまま虎口だったのかどうかは不明であるが珍しい構造をしている。
二郭から南へ伸びた尾根に広がる広大な平地は現在畑になっているが、ここが屋敷跡という。南端に土塁があり、車道はそのまま枡形状になった土塁の間を曲がって降りていくようになっている。
須藤中学校の南側にある国道294号線と県道338号線との千本交差点を東へ曲がり県道を東進する。しばらく行くと北へ曲がる道があり、そこを北に曲がって道なりに進むと尾軽集落に達する。この集落から千本城へ車道が付いており、軽自動車なら主郭までそのまま登れそうである。
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