築城年代は定かではないが森田氏によって築かれたと云われる。
文治3年(1187年)那須資隆の長男光隆が森田の地を分知され森田氏を称したのが森田氏の始まりとされる。森田光隆には子がなかったことから、佐久山城の泰隆の子を養子に迎えたが、これにも子ができず森田氏は断絶した。
天文15年(1546年)那須高資の弟資胤が森田を分知され、森田弾左衛門と称して森田氏を再興するが、高資が千本城にて大田原氏に謀殺されたため、宗家を継ぎ、森田氏は福原資安の子が継いだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったことから、宗家の那須氏は没落、森田氏もまた没落した。
森田城は芳朝寺の東に聳える標高130m程の山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は南北二段ほどの大きな曲輪で、西や東下は帯曲輪があるが、北側は藪に埋もれて全く足を踏み入れることができない。帯曲輪はそのまま南へつ続いており、南尾根は巨大な空堀で遮断し、そこから続く竪堀が遊歩道となって寺へ続いている。
芳朝寺は江戸時代に森田陣屋を構えた旗本森田大田原氏の菩提寺で歴代墓碑がある。
芳朝寺の境内から遊歩道がある。
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