築城年代は定かではないが南北朝時代に小田五郎藤綱によって築かれたと云われる。
南朝方であった小山義政が敗れて自刃したのち、義政の子若犬丸は南朝方の残党とともに小田城を経て難台山城へ籠もった。足利氏は上杉朝宗を大将として難台山城を攻めたが、容易にこれを落とすことができず、館岸城を築いて長期戦となった。足利方は佐竹氏にも出陣を要請し、これに応えた佐竹氏は糧道を断たせたため、城は落城し、小田藤綱は自刃、若犬丸は逃亡したという。
難台山城は標高552.8mの難台山に築かれた城である。一般的に観音平と呼ばれる南東に伸びた尾根の部分が難台山城だと云われているようであるが、山頂部にも城郭遺構がある。
難台山の山頂部は比較的平坦に削平され、南東側に低く段々と連なっている。山頂から北西側の尾根に一条、南東側の尾根に二条の堀切があるが、南尾根には見当たらない。
難台山への登山道は各方面から付いているが、小田氏の追悼碑と観音平を経由するルートとして南東の駒場ルートを選択した。駒場集落から道しるべがあり、これに従って林道難台線に入る。ここから少し入った所に林道分岐があり、その辺りに駐車可能である。このルートは道標もしっかりしておりわかりやすい。
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