築城年代は定かではないが八田将監によって築かれた。 小田氏の一族八田将監が片岡より移って築いたという。
戦国時代末期には佐竹氏の客将となっていた太田正資が城主となり、三男資武とともに片野城を居城としていたが、天正19年(1591年)武蔵国岩槻へ戻る事無く正資は没した。
慶長7年(1602年)佐竹義宣は出羽国久保田に転封となり太田氏も出羽へ移った。
慶長8年(1603年)滝川雄利が二万石で入封したが、子利正は病弱で嗣子なく、一万八千石を没収され二千石の旗本となり、廃城となった。
城は比高20m程の台地に築かれ、七代天神社の北側の空堀を通る道沿いに案内板と石碑が建っている。
案内板から曲輪を越えて北へ行くと空堀に土橋が架かり周囲を土塁で囲まれた主郭に達する。その北側も巨大な空堀を隔てて竹薮となっている曲輪がある。
七代天神社も曲輪と思われ、南側に土塁が残り、その南にあるお寺へと続く。このお寺には太田資正の墓所がある。