築城年代は定かではないが治承年間(1177年〜1181年)に下川辺政義によって築かれたと云われる。 下川辺氏は下総国葛飾郡下河辺荘の発祥で藤原北家・藤原行政の子行義が下川辺氏を名乗ったことに始まる。
政義は行義の子で、兄行平とともに源頼朝に仕え、養和元年(1181年)志田義広が源頼朝に叛いて挙兵した時、これを討って戦功をあげ、この地の地頭職を得て築城し、子孫は益戸氏を称した。
南北朝時代の城主は益戸国行で、小田氏とともに南朝方に属して、北朝方の大掾氏等としばしば戦ったが、暦応4年・興国2年(1341年)小田城の小田治久が開城すると、国行は城を捨てて小山氏を頼って落ち延びたという。
慶長7年(1602年)出羽国本堂より本堂茂親が八千五百石で入封し交代寄合の旗本となり、はじめ笠松城に入ったが、正保2年(1645年)志筑陣屋を構え、明治まで続いた。
城は小高い丘の上に築かれており、現在は志筑小学校となっている。 校門の所に案内板と石碑が建っている。 遺構は学校の西側に空堀が南北に残り、学校内であるので土塁を直接確認することはできなかったが、校庭の奥には土塁が残っているらしい。