築城年代は定かではないが天文4年(1535年)頃に本堂氏によって築かれたと云われる。 本堂氏は陸奥国和賀郡に勢力をもった和賀氏の一族で、南北朝時代の頃に本堂に土着し元本堂城を築いて居城としたことに始まる。
天文年間(1532年〜1555年)に本堂城を築いて山城である元本堂城より移ったとされる。戦国時代の本堂氏の系譜は義親・頼親・朝親・忠親・茂親で、義親は戸沢氏と戦って鴬野で戦死、頼親は金沢城主と戦って野口で戦死、朝親も戦死したという。
天正年間(1573年〜1592年)の当主は本堂忠親で豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、藤田信吉の検地に協力して八千九百八十三石余を領した。
関ヶ原合戦の後、本堂茂親は常陸国志筑八千五百石に転封となり廃城となった。本堂氏は以後交代寄合として明治まで続いた。
城は斉無川の南岸に築かれている。やや南北に長い方形の平城で周囲を取り巻く内堀の幅は10m程ある。北を除く三方に虎口を開き、南が大手という。
現在は平城でありながら、内堀内部が良い状態で残り北東隅に大土塁が残る。周囲はこのような大土塁が巡っていたと思われるが、開墾されたときに失ったのであろう、北東隅部には鬼門除けであろう社が祀られていた為に残されたと推測する。縄張図では描かれていないが、北東隅部は入隅となっているようである。