貞和2年・正平元年(1346年)大掾詮国によって築かれたと云われる。 大掾氏は桓武平氏・平良望が常陸国大掾となって下向したことによって始まり、職名から大掾氏と呼ばれるようになった。
代々大掾氏の居城であったが、天正18年(1590年)佐竹義宣によって攻略され、大掾清幹は自刃した。その後、佐竹義尚が城主となったが、慶長7年(1602年)佐竹氏が出羽国久保田へ転封となる。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長7年(1602年) | 出羽国六郷より六郷政乗が一万石で入封。 |
元和9年(1623年) | 六郷政乗は出羽国本庄へ転封。 信濃国飯山藩主で改易となっていた皆川広照が一万石で大名に復し入封。 |
寛永2年(1625年) | 皆川隆庸は父広照の隠居にともない、自身の所領五千石と併せて一万五千石、この内千石を弟の宗富に分知して一万四千石となる。 |
寛永8年(1631年) | 皆川隆庸は大番頭となり近江国浅井郡内に四千石を加増され、一万八千石となる。 |
正保2年(1645年) | 皆川隆庸が没し嫡男皆川成郷が家督を相続。弟秀隆に五千石を分知し一万三千石となるが、その後わずか一ヶ月後に嗣子なく没して除封。弟秀隆の家系は旗本として存続している。 |
元禄13年(1700年) | 水戸藩主徳川頼房の五男松平頼隆は兄徳川光圀から保内郷二万石を領していたが、五代将軍徳川家綱より陸奥国長沼と常陸国府中にて二万石を与えられ、保内郷二万石を宗家に返却し、二万石の大名となって府中陣屋を築いた。その後、十代頼策まで続いて明治に至る。 |
陣屋門(移築 城門)