慶長15年(1610年)楯岡満茂によって築かれた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功によって最上氏は庄内三郡と由利郡を恩賞に賜り、五十二万石の大大名となった。これによって最上氏は重臣楯岡満茂に四万石を与え赤尾津城に入れた。
楯岡氏は赤尾津城主となって赤尾津氏を称したが、慶長15年(1610年)新たに本荘城を築くとともに本城氏を称した。しかし、元和8年(1622年)最上氏が改易となると本城氏もこの地を去った。
本多正純は最上氏の改易により上使として山形城受取りに赴いた時、突如自分自身が謀反の罪で下野国宇都宮の所領を没収され、新たに出羽国由利郡に五万五千石を与えられた。しかし、正純は謀反は身に覚えのないこととして、これを固持し、出羽国横手へ流罪となった。
その後、常陸国府中より六郷氏が二万石で入封し以後明治まで続く。
本荘城は由利本荘市役所の所にある小丘陵一帯に築かれており、現在は中心部が本荘公園となっている。
本荘城は最上家臣楯岡(本荘)満茂が最初に築いたときの規模が一番大きく、後に六郷氏が入部するとその規模を縮小して維持された。本丸は公園の最頂部にある土塁囲みの曲輪で、一段下がってその周囲を取り巻く帯曲輪群は最上時代は「本丸之内」、六郷時代は「二の丸」であった。最上時代は北麓から東麓にかけて二の丸、三の丸はさらに北に大きく続いていた。一方六郷時代になると市役所の西にある大手門温水プール遊泳館のある敷地のみが三の丸となった。
本丸は土塁囲みの広大な敷地で、「本丸の館」、「修身館」、「招魂社」などがある。「修身館」には本荘城の模型や出土物の展示があり無料で見学できる。本丸の虎口は北の朱雀門、東の大手門、南の裏門と三ヶ所あった。本丸の土塁沿いには鉄砲櫓、長柄櫓、弓櫓、具足櫓などがあり、それぞれ石碑が建っている。
本丸から一段下がった部分には三日月堀や硝煙倉跡、御門跡、東御門跡などがある。
北麓の水堀は現存で城門は平成6年に再建されたものである。
城門(模擬 城門)
由利本荘市役所が目印で公園周辺に多数の無料駐車場がある。模型は本丸にある修身館、秋田県由利本荘市石脇弁慶川にある本荘郷土資料館にも展示されている。
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