築城年代は定かではない。戦国時代に浅利氏の家臣十二所信濃の居城であったと見られているが確証はない。
慶長7年(1602年)常陸国より秋田に入封した佐竹義宣は十二所城に家臣赤坂下総を置いた。元和元年(1616年)赤坂下総に代わり塩谷伯耆義綱が十二所城代となると、翌元和6年(1617年)十二所城は一国一城令によって廃城となり、城割は破却されて再来館と呼ばれた居館に改築され、北側には十二所代官所が設けられた。 延宝7年(1679年)には塩谷民部重綱に代わり梅津五郎左衛門忠貞、天和3年(1683年)梅津忠貞に代わって茂木筑後知恒が代官となり、以後茂木氏が代々代官を務め明治に至る。
十二所城は米代川の南岸にある丘陵に築かれている。 本丸は十二所神明社の西側の台地にあって西側に空堀が残り、ここに石碑と案内板が建てられている。十二所神明社が鎮座する台地とその南側の畑となった台地が曲輪跡とされる。
十二所神明社を目指す。手前の車道を登った所に本丸跡への看板が出ている。
最寄り駅(直線距離)