築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼によって築かれたと云われる。
浅利氏は甲斐国浅利郷を発祥とする甲斐源氏で文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原討伐に参陣し比内の地頭職を得た。南北朝時代には北朝方に属し南朝方であった南部氏の鹿角の諸城を津軽の曽我義氏らと攻めている。
その後の動向は詳らかではないが、永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼が十狐城を築き、小大名ながら一勢力を築いた。この則頼の出自は定かではなく「浅利軍記」などによれば甲斐国より比内に下向したとある。
天文19年(1550年)浅利則頼が没すると長子則祐が家督を継いだ。浅利則祐は安東氏に属し、永禄年間(1558年〜1570年)はじめには南部氏の長牛館を攻撃したが、永禄5年(1562年)則祐は安東氏との不和により攻められ長岡城で自刃して果てた。則祐の跡を継いだのは弟勝頼で、中野城より十狐城に移り、さらに長岡城に移っている。
天正2年(1575年)浅利勝頼は独立を計り、田代町山田で安東愛季と戦い(山田合戦)花岡城主浅利定頼が討死するなど大敗を喫した。しかし、その後も浅利氏は安東氏とたびたび戦っている。天正11年(1583年)安東愛季は和睦交渉と偽って勝頼を呼び寄せ謀殺させた。勝頼の子頼平は津軽為信を頼って比内より逃れ、比内は安東氏の所領となった。
天正17年(1589年)大館城代五十目兵庫秀兼が南部氏に内通して比内が南部氏に奪われると、翌年秋田実季は津軽為信と結んで比内を奪還する。このとき津軽氏に身を寄せていた浅利頼平は為信の斡旋により再び比内に戻り秋田氏に従って太閤蔵入地となった大館一帯を支配した。
しかし蔵入米や文禄の役での金子の未納などの問題で再び浅利氏と秋田氏は対立し、慶長3年(1598年)浅利頼平は上洛中に大坂にて没し、浅利氏の残党は秋田氏に討たれ十狐城は破却され浅利氏は滅亡した。
十狐城は炭谷川が屑川に合流する地点の北東側の丘陵、大日堂から北西の先端にかけて築かれている。
十狐城は群郭式の山城で深い空堀によって区画された曲輪が並び、本丸はその中央に位置している。本丸、蔵跡などの標柱の建つ曲輪は畑などに転用されているが、一帯の空堀は良好に残っている。
大日堂を目指すのが良いだろう。ここから十狐城への散策路がある。
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