築城年代は定かではない。
新田館は平安時代末期に奥州藤原氏四代藤原泰衡を討った河田次郎の居城である「贄の柵(にえのさく)」、別名柵の城(しがらみ)の擬定地でもある。 文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原氏討伐で藤原泰衡は平泉から蝦夷地に逃れる途中、家臣河田次郎の居城である贄の柵に立ち寄った。河田次郎は泰衡を匿って罪になるより、頼朝の恩賞を得ようと画策し、家臣を使って頼朝の軍勢が攻め入ったように見せかけ泰衡を自害へと追いやり、首をとって頼朝の陣屋に赴いた。しかし頼朝はこれを喜ばず河田次郎は斬首に処せられた。
中世新田館に関する文献・口伝などは伝わっておらず詳らかではない。 「浅利興市侍分限」に「奥家老 新田村居住 川口安芸」、「御膳番 新田大学」の名がある程度である。
新田館は屑川の西岸にある二井田地区に築かれていたというが、現在は市街地と化して遺構は残っていない。北側に八幡神社があり、屑川を渡った東側に鏡神社がある。