築城年代は定かではないが永享8年(1436年)安倍康季が築いたとも云われる。 属にいう安東三城(檜山城・脇本城・湊城)の一つ。
その後、湊安東氏の居城として続いたが、天文20年(1551年)安東尭季が没すると、檜山安東氏の安東愛季の弟茂季が湊安東氏の家督を継いだ。元亀元年(1570年)豊島城主豊島玄蕃らが謀反を起こし湊騒動と呼ばれる内乱となると、檜山安東氏の援軍もあってこれを鎮圧した。天正7年(1579年)に茂季が没すると家督を継いだ嫡子高季が幼少であったこともあり、後見人となった安東愛李が事実上湊安東を併合する形となった。
天正15年(1587)(秋田)安東愛李が没すると、翌天正16年(1588年)湊安東高李が戸沢・小野寺氏を味方にして謀反を起こした。家督を継いだ秋田実李はいまだ13歳と幼少で脇本城を棄てて檜山城へ逃れて籠城し劣勢であったが、由利十二頭の赤尾津・羽川氏の援助を得て形成は逆転し湊城は秋田実季によって落とされた。
秋田氏は湊城を居城として豊臣秀吉に臣従し五万七千石を領していたが、関ヶ原合戦での不手際があり、慶長7年(1602年)安東実李は常陸国宍戸へ転封となり、替わって佐竹氏が秋田に入部すると久保田城を築いて居城としたため廃城となった。
現在は市街地に没しており明瞭な遺構は残っていないという。土崎親明社の所に案内板が建っている。
土崎駅西口の正面から西へ続く道沿いの左側に案内板が見える。
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