築城年代は定かではないが14世紀中頃に安東忠季によって築かれと云われる。 安藤氏は安倍貞任の子高星丸が津軽に逃れ、後に藤崎城を居城としたことに始まる。安藤氏はその後十三湊へ移ったが、南部氏によって一時滅亡、南部氏に捕らわれていた師季(政季)が田名部の地を与えられ、安藤氏を再興した。政季は田名部から蝦夷ヶ島へ渡り、康正2年(1456年)に湊安藤堯季の支援を受けて小鹿島へ渡った。忠季のとき檜山へ移り、檜山城の前身となる檜山屋形を築いたという。
檜山安藤氏(安東)は愛季のとき、湊城主湊安藤氏を併せて勢力を拡大していく。愛季の子実季のとき秋田氏に改称し、慶長7年(1602年)実李は常陸国宍戸へ転封となった。
慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に入部すると小場義成や多賀谷氏の居城となったが元和6年(1620年)一国一城令によって廃城となり、多賀谷氏は麓に居館を築いて移った。
檜山城は多法院の東に聳える標高140m程の山に築かれており、 現在は檜山安東氏城館跡(茶臼城、大館)の一つとして国指定史跡となっている。
檜山城は谷の南側にある主郭から西へ伸びた曲輪群、その東にある標高140m程の最高所にある将軍山の曲輪群、そして谷の北側にある北曲輪群などからなる広大な山城である。
主郭は谷の南側の標高130m程の峰を中心に、周囲へ伸びた尾根に曲輪を展開する。西へ伸びた尾根は谷を挟んで三本あり、それぞれ曲輪群を連ねて西端を大堀切で遮断している。北端の尾根が主線で広大な曲輪の西端には一段小高く櫓台が付いている。主郭から東の将軍山に至る部分に枡形と土橋を組み合わせた虎口があり、最も技巧的な遺構である。
将軍山の曲輪群は将軍山と館神社の間に広大な平地があり、西側に土塁が付く。将軍山は自然地形に近いが、南東側の尾根に堀切があり、主郭方面は竪堀状の地形が複雑に絡み小曲輪群となる。
主郭から谷を挟んで北側に位置する北曲輪群は余り整備されていないが、堀切で区画された曲輪から西へ降りる山道の側面に堀切と竪堀が刻まれている。
二の丸と三の丸の間の辺りまで車で登る事ができるが、上は車を駐めるスペースが限られているため、登り始めた辺りにある路肩に駐めて登るのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)