築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に氏家弾正によって築かれたと云われる。奥州探題斯波家兼に監司として下向した氏家詮継ははじめ杉の沢館を築いて居城とし、後に岩出山城を築いて移ったとされる。
氏家氏は大崎氏の重臣であったが、天文5年(1536年)には大崎義直に反乱を起こした新田頼遠を助けて岩出山城に籠もり、大崎氏とその援軍としてきた伊達稙宗と戦った。大崎氏と伊達氏は丸山館に陣を構えて岩出山城を攻略しようとしたが落城されることができず、和睦となった。
天正14年(1586年)岩出山城主氏家弾正吉継は大崎義隆の寵童であった新井田刑部と対立し、伊達政宗に援軍を要請した。政宗は留守政景を大将として大崎義隆を攻めたが、最上義光が大崎氏に味方して援軍を出し、黒川晴氏の離反などもあって伊達軍は敗退した。
天正18年(1590年)奥州仕置によって大崎氏が改易となると氏家氏も滅び、木村父子の所領となったが、葛西・大崎一揆が起こり、鎮圧後は伊達政宗の所領となった。
天正19年(1591年)伊達政宗は出羽国米沢より転封となり、奥州仕置で下向していた徳川家康が榊原康政に命じて縄張した岩出沢城に入り岩出山城と改名して居城としたが、慶長8年(1603年)仙台城を築いて居城を移し、四男伊達宗泰に一万五千石を与えて岩出山城主とした。岩出山伊達氏は岩出山要害を居城として代々続き明治に至る。
岩出山城は江合川と蛭沢川に囲まれた南東に伸びた丘陵の先端の城山に築かれている。 丘陵の北側の山塊に本丸、南の岩出山小学校、岩出山高校の付近に居所があった。
本丸は城山公園となり山頂まで車道が通じている。本丸の南東側には虎口が残り、空堀に土橋が架かっている他、北東尾根にも堀切が残っている。
北側の麓には藩校であった有備館があり、国指定史跡・名勝として庭園などが公開されている。また、南の松窓寺の近くに伊達家霊廟がある。
有備館(現存 その他)