築城年代は定かではないが南北朝時代に斯波家兼によって築かれたと云われる。 足利氏の流れを汲む斯波高経の弟斯波家兼は奥州探題に任ぜられ下向した。この家兼が大崎氏の祖となり、家兼の二男兼頼が出羽国山形に入部して最上の祖となった。
大崎氏の居城は不明な点が多いが、家兼が当初居城としたのが中新田城、二代直持は師山城、十二代義直と十三代義隆が中新田城に居城し、義隆は後に名生城へ移っている。
大崎氏は奥州探題として広大な勢力を持ったが、度重なる内紛によって没落し、天文年間(1532年〜1555年)頃には実質上伊達氏によって支配されるまでになった。天正16年(1588年)大崎氏の内紛を鎮圧するために伊達政宗が出兵した時 、大崎義隆は最上義光に援軍を要請してこれを追い払うなど、伊達氏からの脱却を目論んだが達成することはできず、天正18年(1590年)小田原城攻めに参陣しなかったため、所領を没収され改易となった。
名生城は江合川の西岸の河岸段丘の微高地に築かれている。大館、内館、北館、小館、群議評定所丸などから空堀と土塁で区画された曲輪群で構成されていたという。
現在は大半が宅地や田畑などになっているが、浄泉院の南東側に四方を空堀が巡った内館がその形状を良くとどめ、随所に空堀や土塁の残欠が残っている。
名生城は名生館官衙遺跡と場所がかぶっている。
名生館官衙遺跡または浄泉院を目指すのが良いでしょう。名生館官衙遺跡とは別に名生城の案内板が浄泉院へ向かう道の脇に建ってる。
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