築城年代は定かではないが南北朝時代に斯波家兼によって築かれたと云われる。 斯波家兼は奥州探題に任ぜられると奥州に下向し、居城として築いたのがこの中新田城である。家兼の下向時期については暦応2年・延元4年(1339年)、文和3年・正平9年(1354年)など諸説ある。
斯波家兼の長男直持は奥州探題嫡流として大崎氏を称し、二男兼頼は羽州探題として最上氏の祖となった。
大崎氏の居城は不明な点が多いが、家兼が当初居城としたのが中新田城、二代直持は師山城、十二代義直と十三代義隆が中新田城に居城し、義隆は後に名生城へ移り、中新田城には城代として南条下総守隆信が居城した。
天正16年(1588年)大崎合戦で南条隆信は伊達の軍勢を中新田城で迎え撃ち撃退した。 しかし、天正18年(1590年)大崎氏は小田原合戦に参陣せず、奥州仕置きにより改易となった。
中新田城は現在の長興寺一帯に築かれていた。 長興寺は斯波氏由来の寺院で、国道に面した東側には斯波家兼の像とともに石碑が建てられている。また境内には大崎氏の供養塔がある。
現在市街地となっているが、国道を挟んだ南東にある多川稲荷神社の背後にわずかに土塁が残る。また、長興寺と西隣の瑞雲寺を囲むように西から北側にある水路は堀の名残のようである。