応永21年(1414年)畠山満泰によって築かれたといわれる。
畠山氏は足利尊氏が奥州管領として吉良貞家と供に下向させた一人で畠山氏は安達郡の西半分を吉良氏は東半分を領した。しかし、観応の擾乱が勃発すると畠山高国・国氏父子は吉良貞家に攻められ利府城で自刃したが国氏の子国詮が会津に逃れ後に本領を回復した。
天正13年(1585年)畠山義継は伊達氏に降伏し、取り成してもらったお礼の為に伊達輝宗(政宗の父)の所に出向いたが義継は輝宗を拉致する。政宗はこれに対して輝宗と供に畠山一行を鉄砲の餌食とした。政宗は二本松城を落とし片倉小十郎、後に伊達成実を城代として置いた。
会津が伊達氏から蒲生氏、上杉氏、加藤氏と替わるにつれそれぞれの城代が置かれたが寛永20年(1643年)白河から丹羽光重が入封し城を大改修した。丹羽氏は11代続いて明治に至る。
戊辰の役では二本松兵は白河口に出兵していたが、その間に間道を通って新政府軍が二本松城下へ迫ってきた。二本松藩は少年兵をも出撃させて新政府軍と戦ったが、城はわずか一日で落城し、二本松少年隊の悲劇を生んだ。この戦いで城の建物は尽く焼失したという。
二本松城は標高345mの白旗ヶ峰山頂に築かれている。山頂の本丸を中心に東に松森館、鹿子田館、南に新城館、箕輪館、本宮館、南東麓に二の丸が築かれ城域は広大である。
山頂の本丸は総石垣で北端に天守台、東に枡形虎口があった。この本丸石垣は発掘調査によって確認され修築・復元されたものである。本丸から唯一尾根続きの北尾根は堀切で遮断されている。
南東麓に二の丸があり、ここに箕輪門が復元されている。
洗心亭(移築 茶亭)
箕輪門(復元 櫓門)
二の丸前に大きな駐車場がある。また本丸のすぐ下にも駐車場があり車で山上に登る事も可能だが、ここへの道は狭く離合困難である。
最寄り駅(直線距離)